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眼のまへに、やみのきたらんのちは、たゆまずはげみて、三帰依を となへたてまつること、中有までも、後生までも、おこたるべからず、 かくのごとくして、生生世世をつくして、となへたてまつるべし。 仏果菩提にいたらんまでも、おこたらざるべし。これ諸仏菩薩の、 おこなはせたまふみちなり。これをふかく法をさとるともいふ。 仏道の、身にそなはるともいふなり。 さらに、ことなるおもひを、まじへざらんとねがふべし。
〔訳〕 目のまえが暗くなってしまってからのちは、たゆまず、南無帰依仏 南無帰依法、南無帰依僧(三帰依)をとなえること、中有(ちゅうう) (前の生から次の生を得るまでのあいだ_)から、後生(ごしょう) (今の生がおわり、今の生を終えて生れかわること)までも、怠らず、 つづけるのである。このように、生れかわり死にかわりして、となえた てまつれよ。 仏の智慧に至ろうとするまでも、怠ってはならない。これが、 もろもろの仏、菩薩さまたちの行われるみちなのである。 これを、深く仏法を悟るともいうのである。また、仏道が身に そなわるともいうのである。 さらに、ことなった思いをまじえないようにすべきである。
「南無帰依仏」、「南無帰依法」、「南無帰依僧」と、 たえずおとなえしなさい。生きても死んでも、おとなえしなさい。 ほかのことは、一切考えてはならない、してはならないと示されるのであります。 南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、南無大師遍照金剛とおとなえする そのいちばんの大本は、「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」なのです。
ここでも、また、道元禅師は、三帰依のお示しをお説きいただいております。 インドにはじまる中有や後生の思想をも借りながら、当時の流行の称名、 唱題思想に片よることなく、仏教本来の三帰依の称名行を 強調しておられるのであります。ここにも、道元禅師が、ほかの祖師たちとは ことなる純粋にしてもともとの仏教徒のあり方を示しておられると言ってよいでしょう。
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