論文  中国から日本に正伝された坐禅の正法 号外
(当論文は、中国天童禅寺『天童禅宗文化交流大会 論文集』に寄稿したものの原文である)

日本国 金沢市 大乘寺山主
大乘寺専門僧堂堂長 師家
世界禅センター本部長
前曹洞宗参禅道場の会会長
元駒沢女子大学長(現名誉教授)
文学博士
東 鱆チ


                 一、

 日本の曹洞宗は、一三世紀のころ、道元禅師(一二〇〇〜一二五三)が、中国に正しい仏法を求めて渡り、天童山景徳寺(浙江省寧波市。現太白山天童寺。以下天童寺としるす)の如浄禅師(一一六二〜一二二七)をたずね、如浄禅師の指導のもとで、身心脱落という決定的な宗教体験を体得して、その法嗣となり、帰国して、その坐禅の正法を広宣したことから始まる。そして、この道元禅師の坐禅の正法は、第四代の継承者瑩山禅師(一二六八〜一三二五)によって、教団として拡大、展開して、現今、日本の仏教教団のうちでは、約一万五千ヵ寺を擁する最大教団となっている。日本の曹洞宗では、釈迦牟尼仏を本尊とし、道元禅師を高祖と仰ぎ、瑩山禅師を太祖と尊んで一仏・両祖と呼んでいる。
 さて、ここでは、焦点を道元禅師にあてる。道元禅師は、いかなる事情で出家し、修行し、なにゆえに中国に渡り、如浄禅師に出会ったか。如浄禅師によって得た身心脱落の内容はなにか。帰国した道元禅師は、如浄禅師から学んだ坐禅の正法を、どのように説き示したかなどの点について、略述したい。

                 二、

 前五世紀、インドにはじまった仏教は、一世紀ごろ中国大陸に伝えられ、また四世紀ごろ朝鮮半島にもたらされたといわれている。
 そして、日本の仏教は、六世紀ごろ、中国、朝鮮から伝えられたといわれる。
 その後、さらに六百年あまりのあいだに、日本は、いわゆる奈良朝、平安朝を経て鎌倉時代とよばれ、そのころの仏教は、鎌倉仏教とよばれる
 奈良仏教は、律宗、華厳宗、法相宗、俱舎宗、三論宗、成実宗で、「南都の六宗」という。平安仏教は、天台宗、真言宗、融通念仏宗などである。鎌倉仏教は、浄土宗、浄土真宗、真宗、禅宗(臨済宗、曹洞宗)、時宗、日蓮宗(法華宗)などである。
 日本の仏教は、平安仏教の最澄上人、空海上人らが中国に求法し、帰国して天台宗、真言宗を開き、鎌倉時代には、栄西禅師が臨済宗を、道元禅師が曹洞宗を学んで帰国した。法然上人(浄土宗)、親鸞聖人(浄土真宗、真宗)、日蓮聖人(日蓮宗)、一遍上人(時宗)らは、中国、インドに求法の経験はない。また、奈良時代、平安時代より、インド、中国から多くの仏教僧や異国文化を伝える人びとがやってきた。
 さて、道元禅師は、京洛・村上源氏の流れを汲む久我太政大臣雅実を祖とする名門に生をうけた。三歳(数え年、以下同じ)で父を喪い、八歳で母を喪い、母方の叔父の指示によって、比叡山(滋賀県、天台宗)に入り、一四歳で剃髪し、僧となった。しかし、やがて、中国に渡ることを思い立つに至るようになる。二四歳の五月から二八歳の秋まで、およそ四年間にわたって、中国の各地で仏法を学んでいる。
 道元禅師が、入宋するに至る前後の事情についてみずからの述懐を、『正法眼蔵随聞記』第五巻では、直弟子懐奘が次のように聞きしるしている。
「私は、はじめ、まさに世の無常によって、いささか求道心をおこし、あまねく諸方をたずね、ついに比叡山(の天台宗)を辞して、道を学ぶことを修めたが、建仁寺に身を寄せていたときに、比叡山から建仁寺に移る間に正しい指導者に会わず、よい友人もないために、迷って邪念をおこした。教え導いてくれた師も、学問の先輩にひとしくよい人となり、国中に知られ、天下に名声があがるようにと教訓をしてくれた。よって教えなどを学ぶについて、まず、この国のおおむかしの賢い人とひとしい人になりたいと思い、大師といわれる人にもおなじようになりたいと思って、ちなみに、『高僧伝』『続高僧伝』などを読むと、かの中国の高僧や仏法者の様子を見ると、今の師の教えとは異なっている。また、私がおこした心は、みな経典、論書、伝記などには、厭い、にくみ、嫌った心であったのだと気がついて、その道理を考えてみるに、たとえ名聞を思うにしても、このごろの劣った人によいと思われるよりも、おおむかしの賢い人や将来の善人に対して恥ずかしく思うべきだ。古人、賢者とひとしくありたいと願うことも、この国の人よりも中国、インドの先輩、高僧に対して恥ずかしいと思うべきであり、彼らとひとしくありたいと願わなければならない。そして、また、目には見えないもろもろの天の神々、もろもろの仏、菩薩などに対して恥じ、彼らにひとしいようになろうとも思わなければならないのに、この道理をえてのちは、この国の大師たちは、土、瓦のように感じられて、いままでの自分はみなあらためられたのであった」と。
 天童山景徳寺(浙江省寧波)から阿育王山広利寺(浙江省寧波)へ。次に経山興聖万寿寺(浙江省臨安)南山浄慈報恩光孝寺(浙江省臨安)平田の万年寺、大梅山護聖寺(浙江省寧波)、小翠岩(浙江省臨海)普陀山(浙江省舟山地区)などを遍歴した。
 しかし、当時の中国仏教は、道元禅師にとって、やはり満足できるものではなかった。失望して帰国しようと思っていた道元禅師に、ある人に、天童山景徳寺の第三二世如浄禅師をたずねてみることをすすめられ、再び天童山に登り、如浄禅師の教えを受けて、身心脱落の決定的な宗教体験をえたのである。
 如浄禅師と道元禅師との問答は、道元禅師によって記録されて今日に伝えられている。『宝慶記』という。
 天童山景徳寺、そして如浄禅師こそ道元禅師の魂のふるさとであり、仏仏祖祖正伝の正法の根元地である。
 そして如浄禅師に出会って、すべてが氷解した。もし、氷解しなければ、さらにインドへ向けて求法の旅に出かけたかもしれない、あるいは、逆に日本へ帰ったかもしれない。

                   三、

 道元禅師は、
「仏仏祖祖の正伝の正法は、ただ打坐だけである。」(『永平広録』第四巻)
「打坐は、すなわち正法眼蔵涅槃妙心である。」(『永平広録』第四巻)とお示しになっている。
このお示しは、実は、天童山景徳寺において如浄禅師から教授されたところである。
すなわち「仏仏祖祖の家風は、坐禅弁道だけである。先師天童は示された。「跏跌坐は、古仏の法である。参禅は身心脱落である。焼香、礼拝、念仏、修懺、看経をもちいず、祇管に打坐して始めて得るのである。」(『永平広録』第六巻)としるされている。
そして、また、
「まことにいま大宋国の諸方に、参禅に名字をかけ、祖宗の遠孫と称する皮袋は、ただ一二百だけではない。稲麻竹葦ほど沢山いるが、打坐を打坐として勧誘するともがらは、たえて風聞しない。ただ四海五湖のあいだ、先師天童だけである。諸方もおなじく天童を誉める。しかし天童は諸方を誉めない。また天童を知らない大刹の主もいる」うんぬん。
当時、打坐を打坐と知る人は、先師天童如浄禅師だけである。周囲の人たちは、如浄禅師のすばらしさをたたえているが、如浄禅師は諸方の修行者をまったく評価しなかった。それは、打坐を打坐と知る者がいなかったからであるという。
さらに、道元禅師は、『大智度論』第一七巻の語を引いて、「龍樹祖師はいう。坐禅はすなわち諸仏の法である」(『永平広録』第七巻)といい、また、次のようにもお示しになっている。
「世尊は、六年端坐して弁道された。日日夜夜に、坐禅を先とし、そののち説法された。
嵩嶽の曩祖は、九年面壁した。いま児孫は、世界にみちみちている。
当山で仏祖の大道を行ずるのは、時の運である、人の幸いである。」(『永平広録』第六巻)と。
ただ打坐することが、インドの釈尊、竜樹尊者、中国の初祖達磨大師、如浄禅師、そして日本の永平寺に伝えられているのだと明言している。
このような道元禅師の教示は、日本の経典仏教、宗派仏教、祖師仏教、さてはいわゆる禅宗の立場からすれば、まったく理解出来ないことにちがいないとおもわれる。
いま、「打坐」とは、いうまでもなく「坐禅」のことである。
 それは、要するところ、
「ただ、身を端(ただ)し、坐を正すを先とする。のち、息を調え、心を致(なげだ)す」(『永平広録』第五巻)のである。
「端身正坐」、「調息」、「致心」の坐禅については、のちにふたたびとりあげるとして、この坐禅の坐禅たるゆえんについて、すなわち、坐禅の正義について、道元禅師のおことばをうかがってみよう。
道元禅師によれば、仏教以外の異教にも坐禅はある。しかしながら、異教の坐禅には「著味の過」(修行して得た坐禅の境地にとらわれるというあやまり)があるという。
また、仏教の声聞や縁覚の人たちにも坐禅はある。しかし、その坐禅には「自調の心」があり、「涅槃を求むる」おもむきがある。
また、坐禅は、「四禅」、「四無色定」ではない(『永平広録』第六巻)
また、三学のうちの定ではないし、六度のうちの禅定でもない(『正法眼蔵』「弁道話」、「仏道」)。
また、小乗、大乗の修行の階程のひとつである「十聖」、「三賢」の境界の及ぶところではない。西天インドの論師、法師さては三蔵義学の呪術師の及ぶところでもない(『正法眼蔵』「嗣書」)。現代風にいえば、思想ないし、ドグマ、イデオロギーではない。
また、呼吸を調えるということについて、「小乗」の人は、「息を数えることによって息を調える」とする。
「二乗」すなわち「四分律宗」、「倶舎宗」の不浄観、数息観は「自調の行」である。これをしてはならない(『永平広録』第五巻)と。
大乗の「調息」の法は、「この息は長く、この息は短かい」と知ることである。
しかし、先師如浄禅師は、息は、臍下丹田から、出て、去る。長いのでもなく、短かいのでもない、どこに行き、どこに去るというのでもない、と。
私(道元禅師)に、ある人が、息を調える方法をたずねたので、このように答えた。「大乗ではないといえども、小乗とことなる。小乗ではないといえども、大乗にことなる、と。」
結局のところ、どうなのかとたずねるので、答えた。「出づる息も、入る息も、長ではない、短でもない、と。」(『永平広録』第五巻)。
要するに、道元禅師の調息の要点は、小乗、大乗の諸派でおしえる、一時的で、人為的、特殊な呼吸法ではなく、短かい息は短かく、長い息は長く、呼吸は、ごく自然におこなうのみだ。釈尊の息づかいは、私どもの息づかいと通ずるということになろう。
ここで、小乗とか大乗ということばが出てきたので、この点について、道元禅師のお示しを学びたい。この点についても、道元禅師は、破天荒で革命的であると言ってもよいかも知れない。
すなわち、次のとおりである。ある者が、かつて、百丈懐海 (七四九ー八一四)にたずねた。
『瑜伽論』、『嬰珞経』などは、大乗の戒律を示した経典である、なぜ、これらの経典にしたがって坐禅を説かないのか。
この問に答えて、百丈は、
大乗、小乗に限定しない、かと言って、大乗、小乗とことなるのでもない。
大乗、小乗を博約、折中して、制範を設け、その制範のよろしきところをつとめるべきだ、と。
しかし、私はちがう、と道元禅師は言う。
要するところ、大乗、小乗に限定されないわけではない、かと言って、大乗、小乗とくいちがうわけでもない、また、大乗、小乗のあいだをとるものでもない。ずばり、言えば、もともと大乗も小乗もないのだ、と」(『永平広録』第五巻)。
言いかえると、道元禅師の位置は、大乗、小乗の枠組みの制約のなかにはないというのだ。小乗でないのはもちろんだが、大乗でもないのだ。釈尊にはじまり、釈尊にかえるのである。「釈尊一仏の法」(『正法眼蔵』「三時業」)である。釈尊には、大乗だの小乗だの、そんな意識はなかったはずだ。
べつの角度から、道元禅師のお示しを求めよう。
仏法を学ぶ人は、正しい仏法とはなにか、邪しまの仏法とはなにかを知らねばならぬとして、
「仏法は、第四祖優婆麹多尊者(西紀前三世紀ごろ?)よりあとは、五部(『大智度論』巻第六三。五百部とする説もある)に分裂した。これは、インドの仏法の衰退のしるしである。
中国の仏法においては、第三四祖青原行思禅師(七四〇年寂)、南嶽懐譲禅師(六七七ー七四四)からのち、五家(潙仰宗、臨済宗、曹洞宗、雲門宗、法眼宗)の宗風をとなえるようになったが、これは中国仏法のあやまりである。
それゆえ、「禅宗」と称するのは、仏法ではない。禅宗と称する者は、釈尊の遺弟ではない(『永平広録』第三巻)。また、「如来禅」、「祖師禅」などと言うのも、まちがっている。加えて言うと、道元禅師は、わが宗門は「黙照禅」であると言わない。
また、「禅宗」、「達磨宗」、「仏心宗」、「曹洞宗」などでもない。
さらに、また、禅宗各派でとなえている接化の手段、教義である「三玄」、「三要」、「三句」、「四料簡」、「四照用」、「五位」、「九帯」、「十同真智」などの説をおぼえておく必要があろうか。
つまるところ、宗称をとなえ、教義のようなものをおしたてることは、如来の弟子のすることではなく、仏祖の弟子のなすところでもない。「釈迦牟尼仏の道は、このように少量ではない。」(『正法眼蔵』「仏道」)。
 そもそも、たとえば、釈尊が摩訶迦葉尊者へ、達磨大師が慧可大士へ付属したのは、正法眼蔵涅槃妙心である(『正法眼蔵』「優曇華」)。禅宗ではない。
もともと、仏の正法を知らない人たちが、わけもわからぬまま外見だけをみて「坐禅宗」と言っていたのだが、昨今は、坐の字を簡約して「禅宗」とよんでいる。いずれにせよ、まちがっている」(『正法眼蔵』「弁道話」)としるしている。
先師如浄禅師は、みんなに示していわれた。
「近年は、祖師の道が廃れて、無茶苦茶な連中が多くなって、しきりに五家の門風などということを言っている。にがにがしいかぎりだ」と。
道元禅師は、如浄禅師に参学して、仏法の全道・核心を体得した。如浄禅師に出会うまでは、けっしてそうではなかったと述懐している。
道元禅師によれば、仏仏祖祖正伝の正法である打坐、端坐すなわち坐禅は、五家の禅宗の禅と同一ではない。
さて、また、いま誤解をおそれずにあえて挙げておくと、道元禅師は、例外的に禅という一字のことばを使うことがないではないが、圧倒的に坐禅という二字の用例が多い。『普勧坐禅儀』、『正法眼蔵坐禅儀』、『正法眼蔵坐禅箴』など。この意を承けて瑩山禅師もまた『坐禅用心記』、『三根坐禅説』など。
言いかえると、坐禅弁道は、インドの釈尊より正伝の仏道であり、ちまたの禅宗は達磨大師を初祖として中国で成立した禅の流れと言ってよいであろうか。もっとも正伝の仏道と禅宗とは切っても切れぬ歴史的交流と伝承がある。そのことを忘れてはならないであろう。
なお、これに関連して、中国の仏教であるが、唐の時代ごろから中国では三教(儒、道、仏の三教)一致の説が発生し、宋代においても、仏教界に拡大していった。しかし、この三教一致説を正面から否定したのは、天童如浄禅師である。これを承けて、道元禅師もまた三教一致説を拒ける。
「近日、宋朝の僧徒のなかで、ひとりとして、孔老は仏法におよばずと知る人はいない」「ひとり先師天童古仏だけ、仏法と孔老とはひとつではないと暁了された」「孔老は三世の法を知らない、因果を知らない、一洲の存在をしらない、いわんや四大洲の存在を知っているであろうか。欲界の六天のことは、なお知らない。いわんや三界、九地の法を知っているであろうか。中国の一国に、なお小臣で帝位にのぼらず、三千大千世界に王たる如来に比較することも出来ない。如来は、梵天、帝釈、転輪聖王等に、昼夜に恭敬しかしづかれて、つねに説法を請したてまつる。孔老にはこのような徳がない。ただ流轉の凡夫にすぎない」「いま澆運のともがらや、宋の愚闇のともがらの三教一致の狂言をもちいてはならない」(『正法眼蔵』「四禅比丘」)。「三教一致」説は、「狂言」であると切り捨てている。
つづけて、「天衆」、「神道」についてのお示しを挙げておきたい。ここで、「天衆」とは、インドや中国の天に住む多くの神々、「神道」とは、いわゆる日本の神道のことであろうか。
いわく。これまでの歴代の仏祖のなかには、諸天の神々の供養をうけた例は多い。
けれども、道を得ると、天の神の眼もおよばず、鬼神もこころもとない。そのことはよくよく知っておくがよい。天の神々も、仏祖のみちを歩むことにつとめてゆけば、仏祖に近づく道はある。
しかし、仏祖が諸天の神々の境地をこえたさとりをえたのでは、諸天の神々ももはや見上げることもなくなってしまい、仏祖のほとりに近づくことも出来なくなる。すなわち「天衆神道」は、「仏祖のほとりにちかづきがたい」(『正法眼蔵』「行持上」)。
いいかえると、道元禅師にとって、諸天の神々は、「三界の人天」に住んでいるのであって、そのままでは、とうてい仏祖におよばないのである。

                 四、

さて、道元禅師がお示しになる坐禅とはなにか。
道元禅師は、坐禅について、多角度的に、文藻豊かに、説き来り説き去って止まない。かと言って、論書のような体系的、思想的に坐禅を解説するのではない。
私どもにはさまざまなうけとめ方が許されるかも知れないが、しかしそこに秘められている真意を眼光紙背に徹して看破しなければなるまい。

道元禅師の説かれる坐禅の本質は「自受用(じじゅゆう)三昧(ざんまい)」と名づけられる三昧である。
『正法眼蔵』「弁道話」の冒頭に
諸仏如来は、ともに妙法を単伝して、阿耨菩提を証するにあたって、最上無為の妙術がある。これはただ、ほとけ仏にさづけてよこしまなことがないことが、すなわち自受用三昧をその標準とするのである。この三昧に遊化するにあたって、端坐参禅を正門とするのである。
とある。
くりかえすが、諸仏たちが妙法を単伝して無上の正覚をあきらかにする妙術は、ほとけからほとけにさづけて伝えられてきている自受用三昧が、その標準である。自受用三昧を体現するには、端坐参禅をその正門とするというのである。
自受用三昧という語は、真言密教や法相唯識でよくもちいられるところであるが、道元禅師の自受用三昧は、この語をもちいつつも、真言密教や法相唯識の教義をはるかに超越しているのである。
そういうことも一つの側面的事情であろう、昨今、道元禅師の自受用三昧について、その主旨から逸脱した解釈や研究成果が横行しているようにみられるのは、注意しなければならない。
『辨道話』における自受用三昧の世界について、要をとって言えば、以下のとおりである。

もし人が、わずか一時といえども、三業に仏印を標し、三昧に端坐するときは、遍法界みな仏印となり、尽虚空はみな悟りとなるのである。

まず、もし、人が、たといわずかの時間でも、身(行動)、口(言論)、意(思想)の三業に仏としての印をあらわし、三昧に端坐すると、全宇宙はみな仏の印となり、全空間はことごとく仏の悟りとなるという。

わずかに一人一時の坐禅であっても、諸法ととけあい、諸時とまどかに通ずるから、無尽法界の、過去、未来、現在に、常恒の仏化道事をなすのである。

次に、たった一人のわずかの時間の坐禅であっても、すべてのものといつの間にかとけ合い、あらゆる時間と完全にひとつづきになるから、全宇宙のなかに、過去、現在、未来のすべての時間において、つねに仏の教化を実現するという。

自覚、覚他の境界は、もとよりさとりのすがたをそなえて、欠けたることなく、証則がおこなわれて、おこたるときがない。

次に、自ら覚り、他を覚らせるこの世界は、悟りのすがたを具えて欠けたところもなく、悟りの原則が実現して止むときがないと説く。

きわまりない仏徳がそなわり、展転に広作して、無尽、無間断、不可思議、不可称量の仏法を、遍法界の内外に流通するのである。

次に、きわまることのない仏の功徳がそなわり、次から次へと展開していって、尽きることもなく、休む間もなく、思議することも出来ない、そして商量することも及ばない仏法を、全宇宙の内にも外にも流通させるのであると説く。
このような自受用三昧の世界は、「坐禅人、確爾として身心脱落し、従来雑穢の知見思量を裁断し、天真の仏法に証会し」(坐禅する人が、忽然として身心脱落〈自己の身と心に対する束縛から解放されること〉し、従来抱いていたもろもろの知見、思量を断ち切って、あるがままのまことの仏法にかなっ)た体験の世界にほかならない。
自受用三昧は、人が端坐して仏となり、みずから真理(法)に目覚め、他の者を目覚めさせて、宇宙世界につながっていく生き生きとした身心脱落の生活なのである。
別のことばでいうと、自利、利他をそなえ、更にこれをつつみこんでいくような宇宙的広がり、宇宙
的深まりに発展していく生き生きとした無限大のいのちのいとなみとでもなろうか。
「仏仏祖祖正伝の法」である打坐は「釈尊一仏の法」(『正法眼蔵』「三時業」)である。釈尊こそ、仏教の宗教的根拠であり、歴史的原点であり、思想的発祥である。
釈尊は、道元禅師にとって「娑婆世界の教主釈迦牟尼如来大和尚」なのである。これまで、宗門の学者のなかには、わが宗門の本尊は法身、報身、応身、三身未分の釈尊であるなどと解釈してきて、これがいまでもはばをきかしているようであるが、これは教学的釈尊観の枠を出ないものである。こんなことをいっていてはいけない。道元禅師の示す「釈迦牟尼仏大和尚」という表現について、眼光紙背に徹して看破しなければならない。「大和尚」とあるのは、まさに「仏仏祖祖」の「仏」であり、それは、私どもの絶対のよりどころでありー目標であり、慈父である。人間ではあるが、単なる人間ではない、仏陀である。そして、仏陀である釈尊は過去より第七仏である。
釈尊は、三十五歳、生老病死の四苦に直面してマカダの菩提樹のもとで坐禅をして明星をみたとき、悟りを開いた。その悟りとは、我と大地有情とともに、同時に成道するということばであらわされている。それは、相対的価値観を絶対的価値観に転換した世界である。その悟りを、釈尊から歴代の祖師たちに単伝して、道元禅師で五十一代、私は八十三代となる。その悟りを、道元禅師は、いろいろに表現しているが、「自受用三昧」が打坐の内容である。「自受用三昧」がインド、中国、日本へ、仏に祖祖に相伝される仏仏祖祖正伝の正法である。(自受用三昧という語は、真言宗や法相宗でも使われるが、これは他受用に対する自受用である。いわゆる教学的、観念的な用法解釈である。先述のとおり、道元禅師のいう自受用は、全くちがう。)

                    五、

さて、次に、道元禅師の坐禅のお示しの要点は、『永平広録』第五巻によれば、さきに挙げたように、1 端身正坐、2 調息 3 致心である。
第一、端身正坐。『普勧坐禅儀』は「端身正坐」、『正法眼蔵』「坐禅儀」では「正身端坐」と表現される。意味は、おなじである。「ひだりへそばだち、みぎへかたむき、まえにくぐまり、うしろへあおぐことがあってはならない。かならず耳と肩と対し、鼻と臍と対するのである」(「普勧坐禅儀」)が、坐禅のときの「正身」である。姿勢を正しくするということである。そして、「あるいは半跏趺坐し、あるいは結跏趺坐する。」
結跏趺坐は、みぎのあしを、ひだりのもものうえにおく、ひだりのあしを、みぎのもものうえにおく。あしのさきはおのおのももとひとしくせよ、参差するところがあってはならない。(「普勧坐禅儀」)。
すなわち、「端坐」に半跏趺坐と結跏趺坐とがある。
なお、両手について、「ふたつのおほゆびさきを、あいささえる。両手をこのようにし、身にちかづけておく。ふたつのおおゆびの、さしあわせたさきを、ほそに対しておくのである」(「普勧坐禅儀」)とある。ここで法界定印とか定印とかのことばは使われていないことに注意すべきである。
「端身正坐」「正身端坐」は、釈尊の坐定のすがたである。釈尊のすがたと私どものすがたがおなじなのである。人間にとって可能な絶対安定の美しい凛然としたすがたと言ってよいであろうか。
第二、「調息」。『普勧坐禅儀』は「鼻息微かに通じ」うんぬん、同じく『坐禅儀』は、「息は鼻より通じよ」とある。要するに、さきにも紹介したとおり、「出る息も、入る息も、長いのではない、短かいのでもない」(『永平広録』第五巻)ということである。したがって、くりかえすが、一時的、作為的、特殊な呼吸法ではない、おのづからなる息づかいである。
ところで、坐禅中の難題のひとつは、睡魔である。睡魔の対処法については、道元禅師は『普勧坐禅儀』にも『正法眼蔵』「坐禅儀」にも一言半句もしるされていない。しかし『正法眼蔵随聞記』巻三には、天童如浄禅師のもとで修行していた道元禅師の見聞がしるされている。

「私が大宋天童禅院に修行していた時、如浄老禅師が住持の時は、宵は二(に)更(こう)の三点まで坐禅し、暁(あかつき)は四更の二点三点から、起床して坐禅された。長老たちもいっしょに僧堂で坐禅をした。一夜も闕怠(けったい)はなかった。其の間、衆(しゅう)僧(ぞう)は多く眠っている。如浄禅師は巡り歩いて、睡眠する僧を、或は拳を以て打(うち)、或はくつをぬいで打ち、耻(はじ)かしめ、眠りを覚ました。なお睡る時は、照堂に行き、鐘を打ち、従僧に蝋燭などを燃して、云った。僧堂で修行して、徒(いたずら)に眠ってどういうことか。なぜ出家して修行道場に入ってきたのか。」

これを一読すると、睡眠がいかに坐禅をさまたげるか、今更のごとくに痛感する。
 第三、致心。致心は、心をなげだすこと。『普勧坐禅儀』に「心、意、識の運転を停め、念、想、観の測量を止めよ。仏になることも目標としてはならない」とあり、『正法眼蔵』「坐禅儀」に「心、意、識ではない、念、想、観でもない、仏に成ることを考えてはならない。」瑩山禅師の『坐禅用心記』にはそのまま承けて、「心、意、識を放捨し、念、想、観を休息して、作仏を図ってはならない。是非にかかわってはならない」とある。心や意識をつかうなということである。頭のなかにうかんでくる雑念や、外界の刺激を追求、連想するなということである。
かと言って、いわゆる無になることではない。また、観心、観法、止観、瞑想、メディテーションなどなどの類いでもない。さらに「仏に成ることを目的にしてはならない」とあるが、仏教とは「仏の教えであり、仏に成る教え」であるとしても、いまは、その仏になることをも意図してはならない。かえって、仏から遠ざかってしまうのである。

 もとより坐禅の目的とか意義というか、その主旨は『坐禅用心記』の冒頭に、「坐禅は、直接に心地を開明し、本分に安住させる。これを本来の面目をあらわすと名づけ、また本地の風光を現わすと名づくのである」とあるように、要するに、自己を明らめることである。この主旨、この一点をあいまいにると、坐禅は無目的のニヒリズム、虚無主義と化し、単なる現実肯足の無気力な坐禅に堕してしまう。
『正法眼蔵』「行持」の巻によると、道元禅師は、その師如浄禅.師の猛烈な坐禅修行ぶりをしるしておられる。それは如浄禅師みずからの述懐によるのであるが、如浄禅師は一九歳のころから六五歳の今日まで、一日一夜も坐禅をしないことはなかった。場所をえらばず坐禅をされた。どのような目的であったかは定かではないが、釈尊の「金剛座を坐破する」との決意で坐禅をされた。「臀肉の爛壊するときどきもあった。このときいよいよ坐禅をこのんだ。」このように、如浄禅師の「只管打坐」は、想像を絶する厳しい日常底であったのである。
さて、また、『普勧坐禅儀』は、最後に坐禅する自己は、いわば宝の蔵である。宝の蔵には、三世十方の無限の宝がおさまっている。いまその無限の宝の蔵の扉がおのずから開けて、自由自在に宝を活用することが出来ると結んでいる。

                    六、

くりかえすが、坐禅というと、えてして、ぼんやり坐っているということになりやすい。そのような無気力な只管打坐であってはならないのである。坐禅の目的、意義、功徳をはっきりと自覚して、つとめなければならない。実は、私どもの坐禅のすべては、釈尊の坐禅の祈りと誓いと願いのなかにつつまれ、そして、そこに私どもは導かれるのである。
いま、道元禅師の祈りと誓いと願いを、『永平広録』に拝する。それは、釈尊に直結し、釈尊と一体でありたいという誓願である。
「上堂。わが本師、釈迦牟尼仏大和尚が、さきの世で瓦師であったとき、大光明とよんだ。(略)日本國越宇開闢永平寺沙門道元もまた誓願をおこした。この五濁の世に、仏となり、仏および弟子、国土、名号、正法、像法、身量、寿命は、ひとえに今日の本師釈迦牟尼仏と一つでありたい」うんぬん、とつづく。
すなわち、次のようである。
「上堂。
私たちのお師匠さま、釈迦牟尼仏大和尚(お釈迦さま)は、過去世では、製瓦職人であった。
大光明という名まえであった。
当時、釈迦牟尼仏と名づける仏さまがおられた。この釈迦牟尼仏が、お弟子たちとともに、大光明のところにお泊りになった。
大光明は、草でつくった座、灯(あか)し、石(せき)密(みつ)、水漿(すいしょう)などを、釈迦牟尼仏とお弟子たちに供養して、誓いを立てたのである。
「私は、これからのけがれた世のなかに生れて、釈迦牟尼仏のような仏さまになりたい」。
その甲斐あって、大光明は、この世で、釈迦牟尼仏という仏さまになることができた。
そこで、日本国、越前の永平寺を開いた道元も、誓願をおこすのである。
これからさきのけがれた世の中で、私たちのお師匠である釈迦牟尼仏のような仏さまになりたい。
 ただ願うところは、仏、法、僧の三宝をはじめ、天も地も、雲も、水も、柱(しゅ)杖(じょう)も、払子(ほっす)も、あらゆるすべてのものが、この私の願いとするところを証明してほしい。
ところで、私たちのお師匠さま・釈迦牟尼仏は、過去において、その先の仏さまである釈迦牟尼仏の国で、釈迦牟尼仏とお弟子たちを、自宅で供養して、誓願をおこされ、その誓願を完成された。
いま、道元は、釈迦牟尼仏から、遠く時と場所をへだてている。
私は、釈迦牟尼仏にお会いして、釈迦牟尼仏のお教えを聞くことができょうか。
〈道元禅師は、払子をたてて、言われた〉
お釈迦さまとお弟子たちは、この払子の先端にいらっしゃるよ。
〈また、払子をたてて、言われた〉
私は、いま、釈迦牟尼仏に供養して、発願する。いま、すぐ、仏さまになることができて、この願いのようでありたい。
諸君。
私がなにを言おうとしているか、おわかりか。
〈払子で、空中に円をえがいて、言われた〉
誤解をしないように、と。」

右によれば、要するに、道元禅師の誓願は、釈迦牟尼仏のような仏さまになりたいということである。

釈迦牟尼仏ないし歴代の祖師たちの誓願とはなにか。『永平広録』巻六に、
釈迦牟尼仏をはじめとする多くの祖師たちは、まず誓願をおこして、人びとを救い、苦しみを抜き、楽しさを与えられた。
これこそ、釈迦牟尼仏や祖師たちのなさってきた常の行いである。

とあるから、釈迦牟尼仏や多くの祖師たちが本分のつとめとしてきた衆生済度を行うことなのである。
釈迦牟尼仏は過去の世において、大光明と名づける製瓦職人であったが、この大光明は、釈迦牟尼仏と名づける仏さまを供養した功徳によって釈迦牟尼仏という仏さまになったという文章は、『大智度論』(巻三)、『新婆娑論』(巻一七七)という有名なンド仏教の論書に出ている。これを、いま、道元禅師は、引用しておられるわけである。
こういうことを契機として、道元禅師の念頭をはなれなかったことはなにかということに思いを馳せてみると、道元禅師は、お釈迦さまの教えに生きたいというこの一事であった。
このように、道元禅師、釈尊の祈りと誓いと願いの打坐につとめるひとすじの道が明らかにされている。まことに、まことに、ありがたいことといわねばならない。


<<付記>>
本論は、二〇一四年五月十二日、慈雲仏学院(浙江省寧海市)において講演した「中国から日本に正伝された坐禅の正法」の内容を、やや詳説したもので、拙僧が、これまで関係する学会等で発表した諸論文の要旨にもとずいていることをお断りしておく。



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