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早春の野に咲く梅の花の香りは、なんともいえず、奥ゆかしい、きよらかさがあります。 むかしから、梅は「寒苦を経て清香を発す」といいます。あのすてきな梅花の香りは、きびしい寒苦のなかに育った梅にこそやどるのだそうです。 中国、宋の時代、戴益(たいえき)という人に、「春を探るの詩」があります。
終日、春を尋ねて 春を見ず (しゅうじつ はるをたずねて はるをみず) 朝から晩まで、あちらことらをたずねて歩いたけれども、どこにも春は見出せなかった。 藜を杖つき踏破す 幾重の雲 (あかざをつえつき とうはす いくちょうのくも) あかざの杖をついて、これまで、どれほどたくさんの山々をふむこえてきたことだろう。
帰り来たりて 試みに梅梢を把りて看れば (かえりきたりて こころみにばいしょうをとりてみれば) がっくりして、わが家にかえってきて、ふと庭さきに咲いている梅の枝をとってみれば
春は枝頭に在って 己に十分 (はるはしとうにあって すでにじゅうぶん) 梅のこずえに、すでに春はおとずれていた。ふくよかによい香りを放って、一輪、一輪が春を いっぱい咲いている。
春のまっただなか、春はどこにあるのかと探しに出てまわってみたが、春をさがしだすことは出来ず、疲れはてて、自分のうちに帰ってみれば、庭の梅の花が、にっこりほほえんでいる。 なあんだ、遠いところをさがしまわらなくたって、もっとも身近なところで、すでに春はまっさかり、梅はニコニコ笑っている。 さきの香田さんのことをひきあいに出していえば、ひとは「自分探し」に出かけるのです。いや、出かけざるをえなくなるのでしょう。現実は、疑問と不満がみち、ともすれば、いらいらして、将来は不安で、こころもとない。ほんとうの自分はなんだろう。しあわせは、どこにあるのだろう・・・。 しかし、いずれにせよ、いまのこの自分をぬきにして、「自分探し」をすることは出来ないでしょう。 さて、その自分ですが、いま、この自分をどうしようというのか、そこが実は、問題のキーポイントです。 ぜひ、大乘寺へ来て下さい。 坐禅をしてみませんか。
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