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大乘寺におまいりになって、仏像に手をあわせて拝んでいらっしゃるお方の敬虔なお姿を拝見して、思わず、私も、合掌してしまいます。 中国、唐の代の禅僧、趙州和尚は、泥をこねてつくった仏像は水にとけてしまう、金属の仏像は火にとける、木の仏像は燃えてしまうと言っています。 だから価値はないものだ、こんなものをありがたがって拝んでいるのはくだらないと言いたいのではないでしょうか―。 このようなとき仏像は、しばしば偶像とよばれます。 手もとの国語辞典には、「金属、木、石でつくった人形のことで、神仏にかたどって作り、信仰の対象となる」とあります。 その偶像を徹底的に批判して、しりぞけたのはイスラームです。 預言者ムハンマドは、カァバ神殿の偶像をすべて破壊し、イスラームの確立を宣言しました。イスラームでは、異教徒の神の崇拝禁止だけではなく、アッラーの彫刻、画像の作製を禁止します。 二〇〇一年、アフガニスタンのバーミヤンの仏教遺跡の東大仏三八メートルは、スンナ派のイスラーム主義勢力タリバンによって爆破され、地上から、その姿を消してしまいました。 趙州和尚のことばはともかくとして、仏像破壊のことは、仏教徒として言葉に言いあらわせないほど悲しくつらいことといえましょう。 さて、仏教の仏像は、むしろシンボルとしての意味がふくまれていると言った方がよいかとおもわれます。 シンボルとは象徴のことで、手もとの国語辞典では、「その社会集団の約束として言葉では説明しにくい概念などを具体的なものによってあらわす。代表させることなど」とあります。 仏像は、たしかに趙州和尚がいうように、そのすがたかたちはなくなってしまうものでしょうから、けっして永遠、絶対のものではないかもしれません。 しかし、だからと言って、そまつにあつかったり、真向うから否定してしまってよいものではないでしょう。 いく千万億の仏のこころ、仏への祈りをあらわした仏像のまえにぬかずいて、この世の平和と人びとのしあわせに、まごころをつくしたいとおもいます。
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