結局、なんのためか 第38号
 鎌倉時代の僧、道元禅師が、中国にわたって、あるお寺の図書館で読書に夢中になっていたときのことです。
 中国人僧がそばへやってきて声をかけます。
 「なんのために、本を読んでいるのか」
 ムツとした若き留学僧道元は、こたえます。
 「人びとのしあわせのために勉強しています」       →
 「なんのためか」
 「ひとびとに利益を与えるためです」
 「結局、なんのためか」
 ここで、道元禅師は、ことばに窮してしまいました。
 いったい、この中国人僧は、なぜ、このように声をかけてきたのだろう。いや、なにを自分に求めてきたのだろう。
 いったい、ぜんたい、自分は、いま、いちばん大切なことを念頭において修行しているのだろうか。
 いまの自分にとつてもっとも大事なことは、ただ、ひたすら坐禅にとりくんで、仏法の眼目、真実の自分を明らかにすることではなかったか。
 そのことをぬきにして、いくら本を読んでみても、知識や教養を身につけることはできても、いちばん肝心なところを学びとったことにはならないだろう。
 ものごとの根本、中心、本質のところをはっきりおさえてしまえば、教養や知識が足らなくても、ひとをしあわせにすることはできるはずだ。
 まさに、あの中国人僧は、ここのところを私にさとらせようとしたのではなかったのか。
 こういうことから、道元禅師は、その後、本を読むことをやめて、ただひたすら、坐禅にうちこんで、さとりを開いたとのべています。
 人間にとつて、知っていてもいなくてもどうでもよいような情報におどらされ、ふりまわされて、正常な判断を失ってしまい、知らず知らずのうちに、世間をだまし、他人を不幸におとしいれ、本当の自分を見失ってしまうことがなければさいわいですが、さて、自分の日常はどうかなと自問しています。

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