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大乘寺をお開きになった徹通義介禅師(てっつうぎかいぜんじ)は、今から七八九年まえ、鎌倉時代、承久(じょうきゅう)元年二月二日、越前(えちぜん)の稲津(いなづ)(福井市稲津町)の藤原氏にお生れになりました。 私は、稲津町に徹通義介禅師のよすがを求めて 二、三度おたずねしましたが、なにも手がかりをえることは出来ませんでした。 藤原氏は、藤原鎌足を先祖とします。のちに大乘寺を開いた冨樫氏も藤原氏の流れを汲むといいます。 福井県の歴史に関する書物にほ、永平寺や道元禅師のことは書いてありますが、徹通禅師のことはほとんどまったくしるすところがありません。 郷土の傑出した偉人を無視することは改められるべきことだと私はおもいます。 徹通禅師のご家庭の様子などは、なにひとつ伝えられていません。 しかし、お母さんについては、徹通弾師は晩年の二一年間にわたって、養母堂を建てて孝養をつくされたということです。むかしから母親と出家した子供の関係は、他人の容易に察することの出来ない深いちぎりがあるとされます。 徹通禅師は、数えどし一三歳、生れたところから二キロメールあまり離れた成願寺町にある禅宗の一派・達磨宗(だるましゅう)の波著寺(なみつきでら)懐鑑(えかん)上人のもとで出家されます。義鑑(ぎかん)と名づけられました。 なぜ出家されたのか。なにもわかりません。たぷん、それなりの内面的に大きなドラマがあったのでしょう。 一四歳からおよそ十年間にわたって、比叡山に登って、学問と修行にはげみます 二四歳ごろ、達磨宗の兄弟子であった懐奘禅師(えじょうぜんじ)のすすめもあって京洛の深草(ふかくさ)・興聖寺(こうしょうじ)の道元禅師(どうげんぜんじ)をたずね、改宗して、その門下となるのですが、その事情は不明です。 この時点において、道元禅師の門下としての第一歩がはじまるのです。
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