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ご開山は,道元禅師にしたがって、京洛の興聖寺から、越前の吉峯寺(きっぽうじ)、永平寺へとすすまれます。三≡歳ごろから二九歳ごろまでの、青春時代のことです。 吉峯寺では、典座の役を与えられます。 典座とは、お寺で修行し生活する人々のために食べ物をつくる役です。 典座は、実に尊とい仕事であるということを、道元禅師は教えていらっしやいます。そして、典座の意義、実務について「典座教訓」という書物をあらわしています。「典座教訓」のような書物は、わが日本の歴史上、ほかに見るこ車が出来ないぼどユニークで貴重なことが書いてあります。 この典座という与えられた役を、ご開山はよろこんでおつとめになったといいます。 あるとしの冬は、ことに雪が深かったけれども八丁の曲り坂を、桶をかついで、朝、昼の食べものをつくるために、汗を流したとあります。 いまも、吉峯寺には、八丁坂とか徹通坂とかよばれる、急な坂道があります。 次のとしには、永平寺が草創されます。このときも、ご開山は、典座の役を命じられ、すべてをとりしきったといいます。 永平寺にあっても、吉峯寺と同じように、長い急な山坂道を登りとおして、典座をおつとめになったことでしょう。 二九歳のとき、永平寺の監寺となられました。監寺は、いまの監院といったほどの立場でしょう。ますます、いそがしくなります。 「勤労(ごんろう)昼夜作務(ちゅうやさむ)、夜山学す。衆務(しゅむ)を欠かさずといえども、打坐工夫(たざくふう)し、すでに郡(ぐん)せず」と伝えます。 ご開山の、一途のひたむきな修行ぶりが目にうかぶようです。
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