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道元禅師の代表的な著述『正法眼蔵』九五巻のなかに、「生死」の巻というのがあります。 とても読みやすい、みじかい文章です。 これは、道元禅師が、白子の浜というところで、親鷲聖人に、払子(ほっす)とともに与えたものだと伝えられています。東京の報恩寺という真宗のお寺に、払子をたずさえた珍しい親鷲聖人の像が奉安してあります。 「生死」 の巻は、 「「生死の中に仏あわば生死なし」。又云く、「生死の中に仏なければ生死にまどはず」。こころは、夾山、定山といはれし、ふたりの禅師のことばなり、得道の人のことばなれば、さだめてむなしくまうけじ。生死をはなれんとおもはん人、まさにこのむねをあきらむべし」ということばではじまります。 現代語になおしてみましょう。 「生死のなかに仏があれば、生死はない」、またいう、「生死のなかに仏がなければ、生死に迷うことはない」と。 これは、夾山禅師と、定山禅師の、ふたりの禅師のことばである。仏道を悟った人のことばであるから、きっと遊びや退屈しのぎにふざけて言ったものではなかろう。生死の苦しみから離れたいと思う人は、まさにこのことばの意味するところを明らかにせよ」。 さて、人は、生れて死にます。古今東西、例外はありません。この世に生れてきたということは、必ず死ぬということでもあるでしょう。そして、生れて死ぬまでのあいだに、私たちは、老い、そして病いにかかります。これも例外はありません。 この事実を、私たちはどのようにうけとめるか。これがいちばんの問題でしよう。
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