『正法眼蔵』「生死」の巻(2) 第65号
 人は、生れて、死ぬ。
 となれば、人にとっていちばんの問題は、生とはなにか、死とはなにか、そして、どのように生きるか、
どのように死ぬかということになるでしよう。

 「生死」の巻は、つづきます。
 「もし、人、生死のほかにほとけをもとむれば、ながえをきたにして越(えつ)にむかひ、おもてをみなみにして、北斗をみんとするがごとし。いよいよ生死の因をあつめて、さらに解脱のみちをうしなへり」。
 現代語におきかえると、
 「もしも、人が、生と死のほかに仏(生と死のくるしみ、なやみを、よろこびと救いにした境涯)を求めたならば、あたかも車の長柄を北に向けて、南方の越(えつ)の国に行こうとするようなものだ。いよいよ生と死のくるしみ、悩みをあつめて、生と死のくるしみ、悩みを転じてよろこび、救いとするみちを見失うのである」となるでしよう。

 さて、生れるとか、死ぬとか言ってみても、それは果して、なんのことだか、わからないといって
よいのではないか。
 というのも、自分の意思で生れてきた人は、いないからです。なぜ生れてきたのか、いろいろ考えて
みても、結局のところ、どうしようもないでしよう。
 けれども、詮じつめてみれば、自分でさがすしかないのではないか。そして、生や死のくるしみ、
悩みをほんとうに脱け出た人の生活、意見に耳を借してみる。そして、それを自分で、徹底的に考えてみる。
 そうすると、実は、現に生きているということは、死につつあるということであり、したがって、
生と死は、べつのものではないという事実がわかってくるのではないでしょうか。
 しかし、生と死は、あきらかにべつものだという考えは、根づよいものがあります。
 
 ですから、生と死はべつものではないということがなっとく出来るのは、かんたんではないようです。

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