『正法眼蔵』「生死」の巻(3) 第66号
 「ただ生死すなはち涅槃(ねはん)とこころえて、生死としてねがふべきもなし。このとき、はじめて
生死をはなるる分(ぶん)あり」
 
 上の原文を、現代語になおしましよう。
 「生と死は、つまり涅槃(生と死のくるしみ、悩みを離れた仏さまの世界、境地)にほかならないと
こころえれば、生や死をいやがって遠ざけることはなくなり、また涅槃をいまさらのように求めることも
なくなる。このとき、はじめて生と死のくるしみ、悩みを離れるのである」。

 道元禅師によれば、苦しみ悩む生と死は、実は、そっくりそのまま仏の世界、涅槃なのである、生と死は
涅槃であるといまさらのごとく言うことすら余計なことであると言ってよいほど明らかなことであり、
このことがしっかりとうけとめられるところに、大きな安心と救いがあるというのです。
 しかし、くりかえしますが、なかなか、このことが、わからない。
 
 そこで、この世のほかに理想の世界を設定して、せめて死んだあとは、そこに行こうと期待をかけます。
あるいは、超越的な絶対者を向うにたてて、それにわが生死をゆだねてしまうということもあります。
 これらは、弱さ、苦しさから、なんとか脱出したい、救いがほしいということで、求め、考えて、
つくり出した、暗示、捏造でしよう。そして、それが、いわゆる世間の宗教というものでもあるのでしよう。
 あるいは、また、生と死の苦しみや悩みを、物質や経済などの条件によつて埋め合せていくという方法も
あるでしょう。
 しかし、この条件なるものが曲者(くせもの)でして、人は、この条件に、多くひきづりまわされて
いるだけといってよいのかも知れない。

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