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「生より死にうつると心うるは、これあやまり也。生はひとときのくらゐにて、すでにさきあり、のちあり。故(かるがゆゑに)仏法の中には、生すなはち不生といふ。滅もひとときのくらゐにて、又さきあり、 のちあり。これによりて、滅すなはち不滅といふ。」 これは、 「生から死に移っていくというのは、あやまりである。生は、すなわちひとときの位置であって、 そこには、すでに、そのはじめがあり、おわりがある。それゆえ、仏法のなかでは、生はそのまま 不生であるという。
滅も、やはり、ひとときの位置であって、また、はじめがあり、おわりがある。 だから、滅はそのまま不滅であるというという」と現代語におきかえることが出来ましょう。 ふつう、私どもは、生れて、死んでいくというふうに考えています。ところが、道元禅師は、 それはあやまりであるといわれるのです。というのは、生は生であり、生のあと、さきであって、 死ではない。生は死にはならない。だから、死に対する生というものはない。だとすれば、もはや 生と名づけるべきもない。そこで、しいていえば、生は不生だということになる。
それは、死すなわち滅についても、同様です。 生が滅して死となるのではない。滅は、滅でしかないのです。とすれば、滅はないから、 しいていえば不滅というほかない。ついでいえば、死んだのち生れかえってくるなどということは ありえない。生を生ききり、死を死にきる。こんなことをいうと、びっくりしたり、そんなことはないと 強く否定する人もいるはずです。さはさりながら、うっかり、この道元禅師のご文章を鵜呑みにしてしまうと、とんでもない誤解を生むことにもなりますから、ご用心、ご用心。
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