『正法眼蔵』「生死」の巻(5) 第68号
次に、
 「生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふとき、滅のほかにものなし。かるがゆゑに、
生きたらはただこれ生、滅来らばこれ滅にむかひてつかふべし。いとふことなかれ、ねがふことなかれ」
とあります。

 すなわち
「生というときには、生のほかにはなにもないし、滅というときは、滅のほかになにもないのである。
だから、生がきたならば、それは、ただ生のみであり、滅がきたならば、それは、ただ滅にむかうほかない。そもそも、それを嫌(きら)い厭(いと)うこともなく、また願い求めることもない」
ということになりましょう。

 くりかえすことになるかも知れませんが、生れて、やがて死ぬ、さらに、ほかのところに生れかわっていくというのはよくあるふつうの考え方です。それは必ずしもまちがいではないのかも知れませんが、道元禅師は、そうではないといわれるのです。仏法においては、つまり、人が生きるというその根本のところでは、
生は生だけ、死は死だけとうけとめるのが正しいというわけでしょう。
 さきにも申しましたが、生きるときはただ生きる、死ぬときはただ死ぬ。ただ死ぬなどいうとなにやら
物騒な言い方のようにきこえるかも知れませんが、人生は、所詮それしかないのではありませんか。
 ちまたの禅寺の掲示板に、「ここ、いま、自己を生きる」とか「即今、只今」とかいうようなことばが
おどっているのを見ることがありますが、おそらく、このあたりのことを言いたいのかも知れません。


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