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さらにつづきます。 「この生死は、すなはち仏の御いのちをうしなはんとする也。 これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御いのちをうしなはんとする也、これにとどまりて生死に 著すれば、これも仏の御いのちをうしなふなり、仏のありさまをとどむるなり。いとふことなく、 したふことなき、このときはじめて仏のこころにいる」
すなわち、この私たちの生と死は、実は、仏さまのおいのちなのである。この生と死を厭って捨てようと するならば、それは、つまり、仏さまのおいのちを失うことになる。しかし、生と死にとらわれるならば、 これもやはり、仏さまのおいのちを失うことになるのであって、仏さまの外面をとどめているにすぎないのである。厭うこともなく、慕うこともない、このとき、はじめて仏さまのこころに入るのである」 私どもの苦しみ悩みの生と死は、実は、苦しみ悩みを超えた仏さまのおいのちとひとしいのであると いいます。私たちは、仏さまにほかならないというのです。
ですから、私たちが私たち自身すなわち生と死を厭って捨てようとすることは、つまり、尊とい、 ありがたい仏さまを厭って捨てることにほかならない。 また、だからと言って、私たちが、生と死にしがみついてとらわれてしまうならば、やはり、仏さまを 失ってしまうのである。 生と死を厭うこともない、慕うこともない、生を生とし、死を死として、生き切り、死に切っていく そのところでこそ、はじめて、仏さまのこころに入っていく、いや、生と死は仏さまそのものとなってしまうのであると説かれるのであります。
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