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なお、つづきます。 「ただし心をもてはかることなかれ、ことばをもていふことなかれ。 ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、 これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる。 たれの人かこころにとどこほるべき」。
現代語におきかえますと、 仏さまのこころに入るには、「自分のこころであれこれおしはかってはならないし、ことばを使って 言いたててはならない。 ただただ、この私のからだもこころも、ほうり出してしまって、仏さまの家に投げ入れて、 仏さまの側からおこなわれるところにしたがってゆくとき、力を入れることもなく、こころをつかうことも なくして、生と死の苦しみ悩みをはなれて、仏さまとなるのである。誰が、自分のこころなどに とどこおっていられようか」というようなことになるでしよう。 ここでは、まえにのべたことがらを、さらにかさねてお示しになっています。
生と死の苦しみ悩みが、まなこを転じてみれば、実は、苦しみ悩みのない仏さまの世界であるというのですが、このことは、なかなか理解できない。ですから、くりかえし、くりかえし、ことばをかえて、 お説きになる。 仏さまのことを、苦しみ悩む私どものこころの次元で、はからってはならないし、ことばや文字の世界で、うけとめてはならない。 そのような人間的はからいをすてて、この身このまま、すべてを仏さまにゆだねてしまうとき、 なんの力も、なんのこころももちいることなく、仏さまとなる。いや、仏さまになるというより、 生と死のまつただなかこそ、仏さまの家にほかならないことをさとるといわれるのであります。
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