『正法眼蔵』「生死」の巻(7) 第71号
なお、つづきます。
 「ただし心をもてはかることなかれ、ことばをもていふことなかれ。
 ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、
これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる。
たれの人かこころにとどこほるべき」。

 現代語におきかえますと、
 仏さまのこころに入るには、「自分のこころであれこれおしはかってはならないし、ことばを使って
言いたててはならない。
 ただただ、この私のからだもこころも、ほうり出してしまって、仏さまの家に投げ入れて、
仏さまの側からおこなわれるところにしたがってゆくとき、力を入れることもなく、こころをつかうことも
なくして、生と死の苦しみ悩みをはなれて、仏さまとなるのである。誰が、自分のこころなどに
とどこおっていられようか」というようなことになるでしよう。
 ここでは、まえにのべたことがらを、さらにかさねてお示しになっています。

 生と死の苦しみ悩みが、まなこを転じてみれば、実は、苦しみ悩みのない仏さまの世界であるというのですが、このことは、なかなか理解できない。ですから、くりかえし、くりかえし、ことばをかえて、
お説きになる。
 仏さまのことを、苦しみ悩む私どものこころの次元で、はからってはならないし、ことばや文字の世界で、うけとめてはならない。
 そのような人間的はからいをすてて、この身このまま、すべてを仏さまにゆだねてしまうとき、
なんの力も、なんのこころももちいることなく、仏さまとなる。いや、仏さまになるというより、
生と死のまつただなかこそ、仏さまの家にほかならないことをさとるといわれるのであります。

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