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いよいよ、本文の最後のところとなりました。 「仏となるにいとやすきみちあり。もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、 一切衆生のために、あはれみふかくして、かみをうやまひ、しもをあはれみ、よろづをいとふこころなく、 ねがふこころなくして、心におもふことなく、うれふることなき、これを仏となづく、 またほかにたづぬることなかれ。 正法眼蔵生死 年号不記
「仏となるに容易な方法がある。 それは、悪いことをせず、生と死にとらわれることなく、すべての生きとし生けるもののために、 あわれみのこころを深くし、かみをうやまい、しもをあわれみ、さまざまのことをきらうこともなく、 逆にねがうこともない、こころにおもうこともなく、心配することもない。これを仏と名づけるのである。 ほかに仏について考える必要はない」。 このように、最後に、仏とはなにか、しるしてあります。仏になる方法もしるしてあります。 道元禅師の『正法眼蔵』およそ九五巻のなかには、仏についてのさまざまな説き方が書いてありますが、 ここにあるような、わかりやすく、仏と仏へのみちを説いてあるのは、例外といってよいでしょう。 しかし、ここに説かれていることは、やさしそうにみえて、実は、決してやさしいことではないでしよう。たとえば「もろもろの悪をつくらず」とありますが、この一句にとりくむことだって、たいへんなことです。けれども、たいへんであろうとなかろうと、自分をなげすてて教えにしたがうとき、みちは開かれて ゆくにちがいありません。
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