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このたびは、『正法眼蔵』「道心」の巻に参じましょう。 はじめに、本文をご紹介します。
「仏道をもとむるには、まつ道心をさきとすべし。 道心のありやう、しる人まれなり。 あきらかにしられん人にとふべし。 よの人は道心ありといへども、まことには道心なき人あり。 まことに道心ありて、人にしられざる人あり。 かくのごとく、あり、なし、しりがたし。」
上記の現代語訳 「釈尊のお示しになった真理への道を生きていこうとするにあたっては、まず、この道を求める心を 第一とすべきである。 しかしながら、道を求める心のありようを知っている人は稀である。 だから、道を求める心をあきらかに知っている人に問わなければならない。 ところで、世の人びとは、あの人は道を求める心を持ってるというけれども、ほんとうは道を求める心を 持っていない人がいる。 また、ほんとうに道を求める心を持っているけれども、世の人びとに知られていない人がいる」 仏道を求めるには、なによりも道心(道を求める心)をさきとすべきであると、道元禅師は、 まずお示しになります。 自分は、どうして生れてきたのか。どのように生きていけばよいのか。なにをたよりに、 なにを目標にすべきなのか。 だれでも一度は、念頭に去来することがらですが、その答えは容易に見つかりません。 いや、さっぱり、わかりません。 私も、十代のおわりから二十代の前半にかけてずいぶん苦しんだものです。 しかし、なにはともあれ、こういう問題について、苦しんで、のたうちまわるところから、 まず、第一歩がはじまるのでしょう。
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