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「つぎには、ふかく仏法僧の三宝をうやまひたてまつるべし。生をかへ身をかへても、三宝を供養し、 うやまひたてまつらんことをねがふべし。ねても、さめても、三宝の功徳をおもひたてまつるべし。 ねても、さめても、三宝をとなへたてまつるべし。 たとひ、この生をすてて、いまだのちの生にうまれざらん、そのあひだ、中有(ちゅうう)といふことあり、そのいのちも七日なる、そのあひだも、つねにこゑもやまず、三宝をとなへたてまつらんとおもふべし」。
右を現代のことばにおきかえますと、「つぎには、仏、法、僧すなわち三宝(さんぽう)をうやまい たてまつるべきである。生をかえ、身は代っても、三宝を供養し、敬いたてまつると願うべきである。 寝ても、醒めても、三宝の功徳を思いたてまつるべきである。 寝ても、醒めても、三宝をとなえ奉るべきである。 かりに、この生がおわって、次の生にうまれないあいだを中有(ちゅうう)とよばれることがあるが、 そして、そのあいだのいのちは七日間であるが、そのあいだも、つねに、となえたてまつることを 思うべきである」となるでしよう。 すべてありとあらゆるものの根本の道理を悟ったお方が仏(ほとけ)さまです。 その仏さまが説かれたおしえが法です。そして、その教えを生活している人たちのあつまりを僧といいます。 仏教が歴史的、社会的に実動していることは仏、法、僧が生きているということです。 現実に、仏、法、僧のいずれかが生きていないときには、そこには、仏教はないと言ってよいでしょう。
仏教徒であるかぎり、そして仏教徒がつどう国際会議のような場合には、 はじめに「三帰依文(さんきえもん)」がパーリ語_(あるいはその国のことば)でとなえられます。 「三帰依文」とは、三宝に帰依(信ずる)することばという意味です。 かって日本の曹洞宗から離脱して「三宝教団」という新しい組織をたちあげたのは、もと曹洞宗の 僧であった安谷白雲老です。白雲老師の三宝教団は、この「道心」の巻あるいは「帰依三宝」の巻の説示に 由来するのかどうかは存じません。若いころ、私は白雲老師にも参じました。なつかしい思い出です。
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