『正法眼蔵』「道心」の巻(6) 第80号
「七日をへぬれば、中有にて死して、また中有の身をうけて、七日あり。
いかにひさしといへども、七日をばすぎず。このとき、なにごとをみ、きくも、
さはりなきこと、天眼のごとし。かからんとき、心をはげまして、三宝をとなへたてまつり、
南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧と、となへたてまつらんことわすれず、
ひまなくとなへたてまつるべし」

 現代語になおします。
 「七日を過ぎると、中有で死んで、また次の中有の身を受けて、七日が続く。
どんなに長いと言っても、七日間を過ぎることはない。このあいだは、なにを見てもなにを聞いても
障害はない。天眼通(てんげんつう)_(あらゆるものを見通す力_)をえたようである。
 このようなときも、一心不乱に、三宝をとなえたてまつり、
南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧をとなえたてまつらんことを忘れることなく、
とぎれることなくとなえたてまつるのである」。

ここに、中有ということば、そして、このことばに関する事項が説かれています。
私どもの死後のことがらです。中有は古代インドの世界観のひとつであって、これが仏教の教理の
なかに影響を与えています。中有がほんとうにあるかどうか、科学的に客観的に証明されるかどうか、
私にはわかりませんが、古今東西、人間は死後の世界について思いの丈(たけ)を馳せてきました。
 
 さて、その中有においても、つねに南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧をとなえるのであると
お示しであります。
 いつ、いかなるときであっても、南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧をとなえるのである。
 南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、南無大師遍照金剛など、宗派によってとなえることばはちがいますが、
いま、この南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧こそ、仏教の原点に位置づけられるものでありましょう。

戻る