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「七日をへぬれば、中有にて死して、また中有の身をうけて、七日あり。 いかにひさしといへども、七日をばすぎず。このとき、なにごとをみ、きくも、 さはりなきこと、天眼のごとし。かからんとき、心をはげまして、三宝をとなへたてまつり、 南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧と、となへたてまつらんことわすれず、 ひまなくとなへたてまつるべし」
現代語になおします。 「七日を過ぎると、中有で死んで、また次の中有の身を受けて、七日が続く。 どんなに長いと言っても、七日間を過ぎることはない。このあいだは、なにを見てもなにを聞いても 障害はない。天眼通(てんげんつう)_(あらゆるものを見通す力_)をえたようである。 このようなときも、一心不乱に、三宝をとなえたてまつり、 南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧をとなえたてまつらんことを忘れることなく、 とぎれることなくとなえたてまつるのである」。
ここに、中有ということば、そして、このことばに関する事項が説かれています。 私どもの死後のことがらです。中有は古代インドの世界観のひとつであって、これが仏教の教理の なかに影響を与えています。中有がほんとうにあるかどうか、科学的に客観的に証明されるかどうか、 私にはわかりませんが、古今東西、人間は死後の世界について思いの丈(たけ)を馳せてきました。 さて、その中有においても、つねに南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧をとなえるのであると お示しであります。 いつ、いかなるときであっても、南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧をとなえるのである。 南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、南無大師遍照金剛など、宗派によってとなえることばはちがいますが、 いま、この南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧こそ、仏教の原点に位置づけられるものでありましょう。
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