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「すでに中有をすぎて、父母のほとりにちかづかんときも、あひかまひて、正智ありて託胎せん。
処胎蔵にありとも、三宝をとなへたてまつるべし。うまれおちんときも、となへたてまつらんこと、
おこたらざらん。六根をへて、三宝を供養したてまつり、となへたてまつり、帰依したてまつらんと、
ふかくねがうべし。」
現代語に訳しますと、 「すでに、中有(ちゅうう)_(死後の七日間_)を過ぎて、父母のもとに近づこうとするときも、 あらためて、正しい智慧をそなえて胎に身を託そう。胎内にいるときも、 三宝(さんぽう)_(南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧)をとなえたてまつるように。 さらに生まれおちるときも、となえたてまつることを怠らないように。 六根(ろつこん)_(眼、耳、鼻、舌、身、意)をあげて、三宝を供養したてまつり、 となえたてまつり、帰依したてまつらうと、深く願うようにせよ」となりましょうか。
前回につづいて、ここでも、道元禅師は、南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧と帰依三宝を おとなえすることを重ねて強調しておられます。 仏と法と僧の三つの宝があってこそ、わたくしたちの世界は、なりたつことが出来ます。 法(ほう)_(真理。すべてのものの事実そのもの_)と、法を自覚した仏(ほとけ)と、 この仏を信じて、法を学び正しいさとりの智慧と大きな救いの慈悲を身につける僧(そう)の人びとこそ、 私たちの無上のたからものであります。
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