『正法眼蔵』「道心」(1) 第92号
 さて、今年は、道元禅師ご撰述『正法眼蔵』の「道心」の巻を
拝読するところから、はじめたいとおもいます。
 「道心」の巻は、「仏道」の巻ともよばれています。「道心」とは、
仏道の心を指しますから、「道心」も「仏道」も大きな差異はありません。
 さて、「道心」の巻は、次のことばからはじまります。

仏道をもとむるには、まづ道心をさきとすべし、道心のありよう、
しれる人まれなり。あきらかにしれらん人に問べし。

 「訳」
 仏の道を求めようとするならば、まず、道心すなわち仏の道を
求めようという心を、なによりもさきとしなければならない。
しかし、道心のありようを知っている人は、稀である。であるから、
道心を明らかに知っている人に質問するがよい。

 ここにしるされていることは、ちょっと読みますと、わかりきった
なんでもないことのように思われます。
 仏の道とは、お釈迦さまのお悟り、教えにほかなりません。
もっと、平たく言いますと、真実に生きることを指します。

 私たちは、この世に生まれようと思って生まれてきたのではないようです。
気がついてみれば生まれていた。
 しかし、さて、この世でどうすればよいのか。
 まったく、見当もつきません。
 けれども、さまざまな人から、いろんなことを耳に入れ、目で見たりして、
とにかく生活をしているわけです。
 けれどもこれでいいのか、わるいのか、真剣に考えてみれば考えるほど、
実はさっぱりわかりません。
 いずれにせよ、いろいろ苦しいことがあることを実感します。
 そして、老いて、死んでいきます。
 死なない人は、この世に1人もいません。
 しかし、このごろは、あと20年もすれば不老不死の時代になるといいます。
 そうなると、不老不死が、1つの苦しみとなるのでしょうか。
 死んでしまって、死んださきははどうなるのでしょうか。
 

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