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さて、今年は、道元禅師ご撰述『正法眼蔵』の「道心」の巻を 拝読するところから、はじめたいとおもいます。 「道心」の巻は、「仏道」の巻ともよばれています。「道心」とは、 仏道の心を指しますから、「道心」も「仏道」も大きな差異はありません。 さて、「道心」の巻は、次のことばからはじまります。
仏道をもとむるには、まづ道心をさきとすべし、道心のありよう、 しれる人まれなり。あきらかにしれらん人に問べし。
「訳」 仏の道を求めようとするならば、まず、道心すなわち仏の道を 求めようという心を、なによりもさきとしなければならない。 しかし、道心のありようを知っている人は、稀である。であるから、 道心を明らかに知っている人に質問するがよい。
ここにしるされていることは、ちょっと読みますと、わかりきった なんでもないことのように思われます。 仏の道とは、お釈迦さまのお悟り、教えにほかなりません。 もっと、平たく言いますと、真実に生きることを指します。
私たちは、この世に生まれようと思って生まれてきたのではないようです。 気がついてみれば生まれていた。 しかし、さて、この世でどうすればよいのか。 まったく、見当もつきません。 けれども、さまざまな人から、いろんなことを耳に入れ、目で見たりして、 とにかく生活をしているわけです。 けれどもこれでいいのか、わるいのか、真剣に考えてみれば考えるほど、 実はさっぱりわかりません。 いずれにせよ、いろいろ苦しいことがあることを実感します。 そして、老いて、死んでいきます。 死なない人は、この世に1人もいません。 しかし、このごろは、あと20年もすれば不老不死の時代になるといいます。 そうなると、不老不死が、1つの苦しみとなるのでしょうか。 死んでしまって、死んださきははどうなるのでしょうか。
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