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仏の道、真実に生きていくことを知っている人は、稀である。 知っている人を求めて、質問しなさいというのが、まえのところにしるしてありました。
この人は道心ありといへども、まことには道心なき人あり。 まことに道心ありて、人にしられざる人あり。 かくのごとく、あり、なし、しりがたし。おほかた、おろかに あしき人のことばを信ぜず、きかざるなり。 また、わがこころをさきとせざれ、仏のとかせたまひたるのりを さきとすべし。 よくよく道心あるべきやうを、よるひるつねにこころにかけて、 この世にいかでかまことの菩薩あらましと、ねがひいのるべし。
「訳」 まわりから、この人物は道心すなわち仏の道をもとめていくこころが あるといわれていても、ほんとうのところ、道心の無い人がいる。 ほんとうは道心があるのに、そのことが人に知られないひとがいる。 このように、有るか無いは、知るのがむずかしい。 だいたい、愚かなな悪人の言うことばは信じないこと、聞かないことだ。
また、自分のこころを優先せず、仏のお説きになった法を優先せよ。 よくよく道心のあるべきようを、夜も昼もつねにこころにかけて、 この世になんとかまことの菩薩すなわち道心があってほしいと、願い祈るがよい。
このところを拝読しますと、ここにしるされていることは、実は道元禅師ご自身の こころの遍歴、苦難のあとかたではなかったかとおもわれます。 道元禅師は、若くして、ご両親と死別されます。そして、比叡山にいるお坊さんの おじさんのところに行きます。そして、お坊さんとしての人生を歩みはじめます。 当時、比叡山は、仏教の中心地です。総合大学です。たくさんのお坊さん、 さまざまな教え、修行法がありました。 そこで、道元禅師は、仏教を学ぶうちに、自分にとって仏教とは なんであるか、ほんとうの仏教とはなにか、仏教を教える人は、いったい どのような人なのかなどなど、いわば自我意識に目覚めた道元禅師は、おそらく、 比叡山をせましとばかり、おおくの先達たちの門をたたいたにちがいありません。 しかし、ますます、わけがわからなくなり、途方にくれてしまった、その様子が ここにしるされているように、私にはおもえてなりません。
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