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世のすゑには、まことある道心者、おほかたなし。 しかあれども、しばらく心を無常にかけて、世のはかなく、人 のいのちのあやふきこと、わすれざるべし。 われは世のはかなきことをおもふと、しらざるべし。 あひかまへて、法をおもくして、わが身、我がいのちをかろく すべし。法のためには、身もいのちも、をしまざるべし。
「訳」 末法の世にあっては、ほんとうの道心のある者は、ほとんどいない。 けれども、しばらく、こころを無常すなわちすべてはとどまる ことなく移り変わっていくということにかけて、世のなかははか ないものであり、人のいのちはいつも危ういものであることを忘 れてはならない。 しかし、自分は世のはかないことを思っていると思いこんではならない。 はっきりと、法つまり仏のみ教えを重くうけとめて、わが身、 わがいのちを軽くすべきなのだ。 法のためには、わが身、わが命も惜しまないようにすべきなの である。
一三世紀、鎌倉時代、道元禅師のころは、末法(まつぽう)、末世(まつせ)とよばれ る時代でした。疫病の流行、権力構造の変化、宗教の乱立、天変 地異の激しい時代でした。しかし、実は、いつの世でも、このこ とは変わらないのですけれども、その時代、その時代、人びとの 苦しみ、悩みは、大きな津波のようにおしよせてくるのです。 そうすると、末法ぢや、末世ぢやと、いろんなことを大声に叫 んで、もっともらしいことをのべて人びとを迷わせる輩が出てくるものです。 しかし、このときに大切なことは、無常ということだと、道元禅師はお示しです。 無常は、この世の事実です。主義、主張、イデオロギー、思想、 哲学でもなければ、宗教でもありません。ありのままのこの世の すがた、この自分自身もまた無常にほかならないのです。誰しも 思いあたるふしがあるはずです。 さればと言って、この無常の理にのめりこんでしまってはならない。 しかし、末法、末世にほんろうされてみずからを苦しめている人びとがいる。 自分もふくめて、多くの人びとのために、無常の道理すなわち 仏法を大切にしなければならない。そのためには、自分のいのち も惜しんではならないと、道元禅師はお示し下さっています。
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