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七日をへぬれば、中有にて死して、また中有の身をうけて、七 日あり。いかにひさしといへども、七日をばすぎず。 このとき、なにごとをみ、きくも、さはりなきこと、天眼のことし。 かからんとき、心をはげまして、三宝をとなへたてまつり、南 無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧と、となえたてまつらんこ とわすれず、ひまなくとなえたてまつるべし。
〔訳〕 七日を過ぎると、中有(ちゅうう)で死んで、また次の中有の身を受けて、 七日が続くのである。どれだけ長いと言っても、七日間を過ぎることはない。 この時期は、なにごとかを見たり聞いたりしても、障りはなくて、 ちょうど天眼(てんげん) (ものごとを見通す力)をえたようなものである。 このようなときも、こころをはげまして、三宝(さんぽう)をとなえたてまつり、 南無帰依仏(なむきえぶつ)、南無帰依法(なむきえほう)、南無帰依僧(なむきえそう)と となえたてまつることを忘れず、とぎれることなくとなえたてまつるのである。
ここでも重ねて、三宝をとなえるべきである、南無帰依仏、南無帰依法、 南無帰依僧ととなえつづけるのであるとお示しになっています。これは、 のちにつづけて「南無三宝(なむさんぽう)」とおとなえすることにもなりました。 パーリ語(スリランカ、タイ、ミャンマー、その他の地域で今も使われていることば)の三帰依文は、 ブッダン・サラナン・ガッチャーミー(南無帰依仏) ダウマン・サラナン・ガッチャーミー(南無帰依法) サンガン・サラナン・ガッチャーミー(南無帰依僧) があり、世界の仏教徒大会などでは、これを、三回くりかえすのであります。 いわば、この三帰依文は、世界の仏教徒の共通語であります。 仏はお釈迦さま、法はこの世の真理、僧は法をあきらかにされたお釈迦さまの 教えを学ぶ僧侶たちこれが、三宝のいちばんはじめの意味です。 のちに、いろいろに解釈され、変容してきました。
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