『正法眼蔵』「道心」(5) 第96号
七日をへぬれば、中有にて死して、また中有の身をうけて、七
日あり。いかにひさしといへども、七日をばすぎず。
このとき、なにごとをみ、きくも、さはりなきこと、天眼のことし。
かからんとき、心をはげまして、三宝をとなへたてまつり、南
無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧と、となえたてまつらんこ
とわすれず、ひまなくとなえたてまつるべし。

 〔訳〕
 七日を過ぎると、中有(ちゅうう)で死んで、また次の中有の身を受けて、
七日が続くのである。どれだけ長いと言っても、七日間を過ぎることはない。
この時期は、なにごとかを見たり聞いたりしても、障りはなくて、
ちょうど天眼(てんげん) (ものごとを見通す力)をえたようなものである。
 このようなときも、こころをはげまして、三宝(さんぽう)をとなえたてまつり、
南無帰依仏(なむきえぶつ)、南無帰依法(なむきえほう)、南無帰依僧(なむきえそう)と
となえたてまつることを忘れず、とぎれることなくとなえたてまつるのである。

 ここでも重ねて、三宝をとなえるべきである、南無帰依仏、南無帰依法、
南無帰依僧ととなえつづけるのであるとお示しになっています。これは、
のちにつづけて「南無三宝(なむさんぽう)」とおとなえすることにもなりました。
 パーリ語(スリランカ、タイ、ミャンマー、その他の地域で今も使われていることば)の三帰依文は、
  
  ブッダン・サラナン・ガッチャーミー(南無帰依仏)
  ダウマン・サラナン・ガッチャーミー(南無帰依法)
  サンガン・サラナン・ガッチャーミー(南無帰依僧)
 
 があり、世界の仏教徒大会などでは、これを、三回くりかえすのであります。
いわば、この三帰依文は、世界の仏教徒の共通語であります。
 仏はお釈迦さま、法はこの世の真理、僧は法をあきらかにされたお釈迦さまの
教えを学ぶ僧侶たちこれが、三宝のいちばんはじめの意味です。
のちに、いろいろに解釈され、変容してきました。



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