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すでに中有(ちゅうう)をすぎて、父母(ぶも)のほとりにちかづかんときも、 あひかまひて、正智(しょうち)ありて託胎(たくたい)せん、処胎蔵にありても、 三宝(さんぽう)をとなへたてまつるべし。うまれおちんときも、 となへたてまつらんこと、おこたらざらん。 六根(うつこん)をへて、三宝を供養(くよう)したてまつり、となへたてまつり、 帰依(きえ)したてまつらんと、ふかくねがふべし。
〔訳〕 すでに、死後の七日すなわち中有(ちゅうう)を過ぎて、父母のもとに近づ こうとするときも、あらためて、正しい智慧をそなえて胎(たい)すなわち 体を託そう。体内にいるときも、南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧と となえたてまつるように。生れるときも、となえたてまつることを怠らないようにせよ。 六根すなわち眼、耳、鼻、舌、身、意をあげて、仏、法、僧の三宝を供養したてまつり、 となえたてまつり、帰依したてまつろうと、深く願うようにせよ。
この世にあるときも、死んだあとも、またさらにまた生れるときも、 南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧と帰依三宝をとなえるように、 からだとこころいっぱいで、三宝を供養するように、おとなえするように 帰依するようにと、深く願いなさいと示されるのであります。 ここに中有とあるのは、死後の世界の一つのすがたですが、これは なんども申しますように、過去世、現在世、未来世の実在を説くインドの 三世観を背景にしたものであります。 で、いつなんどきでも、どこにいても、三宝に帰依することを 怠らないようにせよと、ここでもまた、お説きになっているのであります。
南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧がむずかしければ、いま 南無三宝でもよい、南無三宝が面倒ならば、南無三(なむさん)でもよい、 おとなえしなさいということになりましょう。 徹底した南無帰依三宝が説かれてあります。私どもも、そのように、 いつ、なんどきでも、忘れずにおとなえしましょう。
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